二重否定

二重否定文というのは……

彼女は、美しく見えないこともなかった。

などのような文のことです。
否定の表現(美しく見えない)をさらに否定(こともない)している。

こういった表現は、わたしの想像ですが、もともとはおそらく外国語や翻訳文からきているのではないかと思います。

日本語ではあまり見かけませんが、極力避けたほうがいいと思われます。
これは、英語でも避けるべきだ、といわれています。

その理由ですが、歯切れが悪い、曖昧である、理にかなっていない、などが考えられます。
こういう可ともいわず不可ともいわないような言い回しを使いたくなる気分は「わからないでもない」(二重否定)ですが、のらりくらりとしてやや不愉快な印象を残すと思います。
それというのは、こういう議論が可能になってしまうからです。
仮にこの文章の読者が、「じゃあ美しいのか」と反論してきたときに、この文章を書いた人間としては、「いや、美しいとはいっていない」と言い逃れられる。「じゃあ美しくないのか」と反論されると、「いや、そうともいっていない」と言い逃れられる。
二重否定というのは、こういう水掛け論を誘発しかねない、そういう言い回しだということです。

文章というのは、ほかの言い回しの場合も同様ですが、基本的に曖昧さや歯切れの悪さは避けるものです。
ですからより率直な改善案としては……

彼女は、いくばくかは美しく見えた。
彼女は、それなりには美しかった。
彼女は、 見ようによっては美しかった。人によっては美しいといい、人によってはそうではないという、そういう種類の美人だった。(より詳細な描写)

などなど……

わたし自身も意図的に使いましたが、「わからないでもない」などの二重否定は意外と使ってしまいがちです。
ですが、これが悪癖として身につくと、逃げ口上、ぼやかし、ごまかしのようになりかねません。
こういう曖昧な言い回しを使いたくなる気分はなんとなくわかりますが、あえて、自制したほうがいいと思います。
たとえばのらりくらりとした登場人物がいて、その人物の会話としてこういった言い回しを使うという場合はまた別ですが。