情報の取捨選択

文章は現実ではありません。
どんなに緻密で写実的なものをと思っても、録画をしたり録音をしたりするようにはいきません。
まったくなにもかもをすべて書くというわけにはいかないのです。
必然的に情報の取捨選択をすることになります。

このあいだ押し入れを掃除していたら、ちょっとした地震が。そしたらその拍子になにかが落ちてきて頭にゴツン! いや、痛かったのなんの。頭をさすりさすり、いったいなにが・・・と思って見ると、なんと(製品名)ではありませんか! ああ、なつかしの本、こんなところにあったのか! この本は……(以下略)

(製品名)は青春小説である。恋の悩み、学校での挫折、親友の裏切りと、さまざまなエピソードに満ちている。

枝葉の多い例です。
通販サイトなどで、このようなレビューをよく見かけませんか?
ある製品のレビューをするはずなのに、個人的な枝葉の説明からはいり、なかなかレビューそのものにならない、などなど。
ある目的に対して、どの情報が重要でどの情報がそうでないかが把握できていないとこのようなことになりがちです。
もしこれがブログであれば、最初の例はOKということになるかもしれませんが、ここでの目的がレビューである以上、状況にかなった文章とはいいかねます。

通行人に道をたずねた。この人物、顔は猿のようでありながら、黒髪はライオンのたてがみのよう。身長は低く肥満しているが、超一流のスーツに身を包んでいる。しかしその趣味は悪く、紫がかった生地に白のネクタイ、胸もとにはバラのコサージュ。こぶしをわなわなと震わせ、顔は紅潮している。

通行人に道をたずねた。ところがまったく不愉快な男で、こぶしをわなわなと震わせ、顔は紅潮している。どうやら怒っているらしい。

描写過剰の例です。
要するに言いたいことは、道をたずねたら不愉快な男で、どうやら怒っているらしい、ということだけです。
この通行人がただの脇役である場合、こまかな服装だの顔立ちだのはほぼ余計な情報といえます。
余計な情報を書きすぎると、主要な情報がかえってぼやけてしまいます。

このように、事実やあるがままをなにもかも書けばいいというわけではなく、ある主題なり表現上の目的があって、それに応じた情報の取捨選択となります。
余計な情報が多いほど要点がわからなくなり、くだくだしく退屈になりかねません。

情報の取捨選択が高次になってくると、全体の構成でも同じことが起こります。
この話題はまた別の機会にふれられたらと思います。